進化しそうになったらBボタン

正解じゃないと怖い

四半世紀ぶんの、

 上京する前、新卒で入社した会社を辞めてから半年ほどぷらぷら*1していました。

 

 その日々は、決して楽しいだけではなく、うまくいかない・できない事だらけで、くたびれていて。嫌気がさすこともあって。
でも、それでも、その中でその中で多くの心に留めておきたい言動をたくさん得、この先どうしようかな、どう生きて行こうかな、とボンヤリ考えてはいました。
 
 しかし、自分に甘い私は、前職の辛さから逃げるため、就職した際購入したコンパクトカーを乗り回し、毎日のようにカフェでケーキと紅茶を楽しみ、欲しいと思えば服も本も買う。
顕著な派手さがあったり、デカダンな生活ではないもの、後先考えず好き勝手振舞っていました。ボカスカ削れる預金残高、なあんにも蓄積されない脳みそ。
 あの頃、もっといろんなことができたな、と今となってはどうにもならない後悔を感じています。
 
 というのも、私はそのぷらぷら生活を経て(一度も地元を離れ一人で暮らしたことがなかったし、美術館が多い、という程度の理由で)なんとなーく、東京に居を構えてみよう、と決めてしまいました。なんとなーく。東京で暮らしたところで、私が何者かになれるわけないことを知りながら。
 地元に留まれば、私のやりたい・興味のある事柄に携わる仕事*2のお誘いもあり、それに従事していたのでしょう。本当に申し訳ないです、折角ご好意で誘っていただいたのに。)ですが、それらに当然かの如く華麗なブッチをキメました。
 
 多分私は、その頃、なんとなく息苦しさを感じていて、ただ、外の世界を見てみたかった。んだと思います。何処かに行ってみたかった。
 
 お世話になった方々には、誤魔化すように「25歳くらいまでは取り敢えず好きにして、その中でのいろんな体験から、私のやりたいことや自分にとって必要なものを探して、30歳くらいに何かしらに辿りつけたらなと思います」のようなボンヤリした事を言い、東京に立ちました。
 
 けれど今は、もう仕事のことを考えるだけで胸が詰まり、涙を流し、無意味に二酸化炭素と糞尿を垂れ流すことがわたしの人生となってしまっていて。日々に恐怖を抱え、ズルズルと時間を浪費している。
 そりゃ当然っちゃ当然。何のアタリもつけづ、垂れ流しの日々。コロナで観たい展示全然行けないし。何かビョーキらしいし。
 
 四半世紀、適当にほどほどに努力せず生きた私をもっと反省すべき、これからはもっと能動的であるべき、と思っても全てボロボロ。どうしたら、頑張れたんだろう。どうすれば、頑張れるんだろう。
「頑張る」がわからない。知らない。
 
 “25歳”にもなると、遠くに離れたどこかの同級生達は自分の人生のコマを(多少の妥協はしているのだろうが)進めている。と思う。少なくとも、私にはそう見える。一方の私自身のコマは全く進んでいない。人生ゲーム序盤で借金地獄、そんな感じ。
 
 私の気持ちや理想だけ並べるのなら、もっと多くを学びたい、もっと様々な物事・人々にに関わってみたい。そこから見出したもので、見出したものに対して思考し、何かしらの形(例えば、このブログの文章であったり、勝手に論文のような物を書く、など)としてどこかに蓄積したい。そして、それら全ての行為から得たことを用い、自分の納得のいく生活を、自分の手で作り支えたい。
 
 …などといった、ヘリウムのつまった風船のような理想はある。何ら具体性などない。だから何をしていいのかさっぱりわからないし、そういう事しか思い浮かべられない自分の存在に息が詰まる。今までの私・今の私・これからの私、それらのつまらないものから脱却する為に「(何かしら、なるべく多くの)体験」が必要であるだろう。必要で、必要なのだろう。
 
 本を読みたい、色々読みたい。学んだことと生活を結びつけ、日々に小さい微笑みや、尊さや、悩ましさを抱え、小さくてもいいのでどこかへ至れるよう歩みたい。何者かになるためではなく、自分が生きていること・生きてきたことに納得したい。周囲の評価ではなく、自分のこれからに自分で期待を持ちたい。
 
 
もう、とても疲れた。心臓が痛くて、世界中が敵に見える。
叶うのなら、何も考えず何も選ばず、苦しみも喜びもなく、ぼおっとした暗闇に消えたい。
 

*1:平日の朝8時から13時までコールセンターでバイト、午後は自分の大学時代にお世話になった方のご好意で、大学で専攻していた事に関連するお仕事のお手伝いっぽいこと(をしつつ周囲のひとびとの人生観察・生き方相談)を。遅い日はそれ関連の資料作成を24時頃まで。動いてる時間はめちゃ長。

*2:薄給だが実家暮らしなので平気