超ひもQ
食べたことのないお菓子を思うお昼休み。
底辺ドカタは電気の消えたバカみたいに広いフロアの片隅の、ちいさな席で
朝ご飯の残りのパン半分をむしゃむしゃと食べます。
みすぼらしい後ろ姿で、私が自ら起こした問題でもないことをえっちらおっちらと調査し、
どんどんドツボにハマって、脳が擦れる様な痛みを抱えた、くたびれた姿。
私は、するりとほどける様な、ほろっとほぐれるような文章が好きです。
仕事の勉強用テキストや卒論の時なんかに読んだ専門書や論文などは、カチッと構成され、まとめられ、遊びはあるもの私の好む文章はあまり多くないです。
それでも、ちょっとした言葉選びやその繋ぎ方でシルクを撫でる様な感触の文章に、時たま出会えます。
そういった文章に最初に出会ったのはモーム。モームは翻訳しか読んだことがありません。
が、その文章は誰が訳そうとあまりに自然な、滑らかに滑り解け融ける、
柔らかいというより、身体に馴染むじつに着心地の良い文章だと感じます。
物事の多くは、なめらかであることが大切だと今のわたしは考えています。
なめらかに、自然に循環してゆくことこそが調和と安寧への鍵と考えています。
そうあるためには、かっちりとした構成も大切ですが、全体の流れをぼんやりと眺め
流れるままに、そのままに、そこに在ることが大切だと思います。
しかし、人々は、社会はそれを待てません。
時のゆるやかな流れに、人々のうねりに、ピンを打ち蝶の標本をたくさん作りたがる。
標本をたくさん作ることが求められ・評価される社会では、ピンを刺し続けなければなりません。
大きなうねりに、抗えないものにピンを突き刺し、スルリと解け伸びるはずの紐に
障害を作りひっかけ、澱ませ、わざわざ複雑にする。
もっと流れてゆけばよい、止まることが流れのうちならそれもまたよい。
しかし、人はわざとピンを刺す。
不思議〜!