神さまを探して(仮)
闇の労働に身を包むものにとって、Twitterのホットワードは大敵です。
月収n万円だとか、冬のボーナスだとか、老後2000万円だとか、何だとかかんだとか…
もう言葉の力で殺されちゃう。言霊やばい!死んじゃう!死にたいからチャンスなのかも!やったあ!!!!
私の生活は小さく貧しいです。ですがそんな中にも、いろんな宝物があります。
恋人から頂いたスヌーピーのハンカチ、母が私が産まれた時作った私のファーストネームの印鑑、5歳の頃から一緒のくまのぬいぐるみ etc.etc.…
それらが宝物なのは、ただそれらがモノとして素敵だからじゃない。経験の外部記録器官としてのモノ。つまり、多くの時間、私の歴史の蓄積、誰かの思い・私の思いがモノをきっかけとして思い出されるから宝物となっているのです。
私が毎日通勤電車でしこしこ読みためている、外山滋比古『思考の整理学』(1986)の中で「記憶したと思う安心が、忘却を促進するらしい。」と述べられています。
その忘却から人間を守るのが、関心による記憶の結びつきであるとも外山は主張しています。(多分そんな感じ、だと思う)
私は、いろんな物事をとても忘れやすい。忘れてしまうことがすごく怖いです。宝物もそうでないものも、分別なく捨てたり・遠くに置くことが苦手です。あまり得意ではない家族や地元という存在から離れ、東京に行くことも悩みました、とーっても。
わたしの周り全部ぜんぶを、ぎゅっと抱きしめて自分の中に仕舞い込み、心のなかで・海馬のなかで、舐めるように見つめたい。
これは、私のかたちが定義されていないから、そう願ってやまないんでしょう。多分。
わたしの形がないから、Twitterのホットワードで、家族の存在で、友人の豊かさで、社会のすべてで殺されそうに死にそうになる。
何かを信じて、自分のかたちを見出せれば、な